宇治の歴史:政治的・文化的に重要な役割を担う|MATCHA-Girl

宇治には、世界遺産の「宇治上神社」「平等院鳳凰堂」をはじめとした歴史・文化資源が多くあります。戦乱の舞台や文化の中心として、それぞれの時代の歴史を今に伝える古跡は、宇治の魅力の一つです。今回は、そんな歴史ある古跡をより楽しむために、宇治の歴史について詳しく解説します。

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宇治の地名の由来ともいわれる皇子・菟道稚郎子

応神天皇の四番目の皇子である菟道若郎子(うじのわかいらつこ)の宮殿が現在の宇治にあったことが、地名の由来だといわれています。

宇治橋の上流、宇治川の右岸の辺りは応神天皇の離宮(桐原日桁宮:きりはらひけたのみや)跡として有名です。

別説もあります・・

菟道若郎子が宮殿を建てて住むより前から「うじ」という地名はあったから、菟道若郎子に由来するものではなく、「内」だから「うじ」になったとする説もあります。

そのため、「うじ」の漢字は、「菟道」だけではなく、「鵜路」「宇遅」「宇知」などいろいろな字が当てられてきました。

※皇子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は、大和政権がようやく基礎を固めつつあった5世紀前半、応天皇の後継を巡って、兄の仁徳天皇に皇位を譲るため、自ら命を絶ったと伝えられています。

宇治橋は水陸交通の要所

7世紀中頃に宇治橋が架けられた後は、奈良・京都・滋賀を結ぶ水陸交通の要衝として、歴史の中で重要な役割を果たすようになりました。

宇治の都市的発展は、平安時代後期、藤原氏の別荘地として、華麗な王朝文化を花咲かせ、その歴史は平等院や宇治上神社をはじめとする文化財や現在の街路に継承されています。

平安時代には栄華を極めた藤原氏の極楽浄土をこの世に具現しようとした平等院鳳凰堂は、その象徴として今もなお往時の姿をとどめています。

源氏物語 宇治十帖の舞台

宇治は、万葉集や平家物語など数多くの文学に登場し、世界に誇る長編小説『源氏物語』の第三部「宇治十帖」の舞台としても有名です。

源氏物語は、藤原道長の娘彰子に女房として仕えていた紫式部が書いた世界に誇る長編小説です。

平安時代の半ばの1000年ころに書かれたとされています。

全編54帖のうち44帖までは、光源氏を主人公に華やかな宮廷での恋愛模様を描いたものです。

それに対して、宇治が舞台となった「最後の十帖」は、その主要な舞台が宇治の地に設定されていることから「宇治十帖」と呼ばれています。

光源氏の子薫君と孫の匂宮の二人の男性と、大君、中君、浮舟の三人の姫君の悲しい恋の物語です。

「橋姫」ではじまり「夢浮橋」で終わっていることから、紫式部にとっては源氏物語の終章を書くうえで、川霧にけむる宇治川が重要な意味を持っています。

宇治川の周辺には、いつからか物語ゆかりの古跡がたてられ、1000年の月日を超えて、王朝文学の世界へと誘ってくれるでしょう。

戦の舞台にも

平安時代末期の1184年1月に源義仲と鎌倉の源頼朝から派遣された源の範頼、源義経とで戦われた合戦(宇治川の戦い)がありました。

源義仲軍と源義経軍によるこの合戦の一場面は「宇治川の先陣争い」として後世に伝えられています。

その後も戦国時代にかけて、宇治川の周辺では幾多の戦乱が繰り返され、日本で初めて自治を実現したと言われる「山城国一揆」や室町幕府の終焉につながる槇島城の戦の舞台にもなりました。

茶の産地として名声

鎌倉時代になると、栂尾高山寺の明恵により宇治に茶が伝えられました。

信長や秀吉の庇護のもと、宇治はその産地として名声をあげ、政治の中心が江戸に移ってからも、宇治茶は高級茶として珍重され、今に至っています。

江戸時代に入ると、名刹興聖寺や中国様式の萬福寺が建てられ、宇治は「茶道」や「禅」に象徴される日本文化の発展に大きな役割を果たしました。

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